シング・ストリート 未来へのうた
2015年 アイルランド・イギリス・アメリカ合作 1時間46分 <予告編>
監督・脚本:ジョン・カーニー
出演:フェルディア・ウォルシュ=ビーロ(コナー)/ルーシー・ボートイン(ラフィーナ)
『シング・ストリート 未来へのうた』をサロンで見ました。今年の5月、例会で上映した『は
じまりのうた』のジョン・カーニー監督の自伝的な映画です。大袈裟に言うと、音楽が人を自
由にする、ですが、国の違いを超えて、高校時代の頃を思い出させる映画でした。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85年)の体育館での演奏、ダンスシーンをオーバー
ラップさせながら、アメリカとアイルランドの違いが浮き彫りに。
連想ついでに、四国の観音寺が舞台の、エレキギターに痺れた高校生の『青春デンデケデケデ
ケ』(92年)も同じようですが、家族や生活振りの違いを感じます。素晴らしい兄に見送ら
れ、彼女との2人の船出はメルヘンチックですが、さてその先は・・・?
そういえば、昔々の同じ英国映画の『小さな恋のメロディ』(71年)もラストで、2人はト
ロッコ車で、船出ならぬ車出しましたが、2人はどうなったのか。
(ストーン)
FAKE
2016年 日本映画 1時間49分 <予告編>
監督:森 達也
出演:佐村河内 守
~置き去りにされた言語「手話」と「音楽」~ 「FAKE」が残したものは?
これまで僕が観たドキュメンタリー作品のなかでも特異な作品である。ゴーストライターを介
して作曲活動を行った佐村河内守氏を目の前に、シーンの九割を彼の自宅内で撮影及びインタ
ビューするといったプライバシーゼロの状況のもと、最後までフェイク(ごまかし)抜きの世に
もキテレツなる映画は、僕を嘲る道化師の如く歩を進めた。
その中で、彼と妻(香さん)の食事の様子が映るのだが、二人のやりとりを観察するうち僕は、
複数のパターンがあるのに気付いた。彼は「口」で淀みなく言葉を発するが、「ろう者」には
該当しない「感音性難聴」という状態にある。森監督に見せた診断書に記されていた。彼が口
で言う肉声を、健常者の妻が耳で聴いて「手話」で返す。彼女の手話を「目」で読み、手話で
なく相槌や肉声で返答。近くにいない場合身体にタッチして教える姿は、彼女の方がろう者な
のでは? と本気で思えてきたりした。
とどのつまり、お互いが同じ言語で意思を伝えていない「ズレ」なのだ。新垣なる者との関係
にも、それは反映されている。彼について新垣氏が、「非常に優秀な、技術屋さんといった感
じ」と語る場面で思い出したが、僕は過去に、ろう者劇団で活動し、演劇を通して聴覚障害者
と彼らの言葉「手話」を不器用なりに覚え理解していた。故に彼が唯一「手話」を使わない光
景は、奇妙だった。
これは憶測だが、本心では、これっぽっちも自身を、「障害者」と思っていない、僕はそう感
じた。もう一つの言語「音楽」にまつわる彼の行為全てに現実味が無いのは、佐村河内守なる
人物自体、「夢の産物」あるいは、「虚無感」の塊に他ならないからだ。
(パンドラ&フライングダッチマン)